Good Old Days - The Emergence of the Japanese Racing Machines
1961年・2シーズン目の苦悩

THE ROAD TO THE GRAND PRIX TITLE
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■RT61・RV61の開発

1960年のマン島TTレースに初参加した我々レース担当者は、上位を争うには余りにも大きい性能格差があることを身をもって感じ、世界の壁の厚さを痛感して6月18日に帰国した。順位やタイムは別として、何とか全車完走し、ブロンズレプリカを持ち帰れたのが心の救いだった。

その後、「翌1961年の世界選手権レースには、125cc・250ccの両クラスに参加する」という故・鈴木俊三社長の考えが示され、両クラスとも “2気筒・ロータリーバルブ・空冷エンジン” を採用することに決め、大幅な性能向上を目指して設計を開始した。

1961年式は125ccもロータリーバルブ化された


1960年10月15日には125ccのRT61試作車を出図。10月31日には250ccのRV61試作車を出図。そして12月13日にはRT61エンジン、12月24日にはRV61エンジンが完成し、テストを開始した。目標としていた出力には及ばないが、RT61はRT60よりかなり性能アップしていた。そして1961年2月1日には両機種の本命車用図面を出図した。

いっぽう、1961年1月26日には、ヨーロッパで契約交渉を進めていたドライバー (P.Driver) 氏が来日。米津浜テストコースで試作車の試乗も行い、正式契約を交わした。ドライバーは、1960シーズンにはノートン (Norton) のマシンに乗り、フランスGPの350ccで5位、500ccで4位、オランダGPの350ccで5位、500ccで4位、イタリアGPの500ccで4位という実績を持つライダーである。

契約交渉に来日したP・ドライバー夫妻

当初、スズキチームは第4戦のマン島TTレースからの出場を計画していたが、彼の要望で第1戦スペインGP、第2戦西ドイツGP、第3戦フランスGPにも単独で出場することになった。こうして、ドライバーは2月20日に離日した。

3月下旬〜4月上旬には、RT61、RV61両機種本命車の部品が完成し、テスト、仕様の決定、組み立て……と、多忙な日々が続く。このさなかの5月2日、入社まもないテストライダーの内藤隆寿君が、米津テストコースで、コースを横断しようとしたリヤカーをよけ損ない、死亡するという悲しい事故があった。

このコースは、ホンダさんの荒川テストコースと同じ規模の直線(約2q)を持つテストコースであるが、一般の畑の中に建設したため、お百姓さんやリヤカーが時々コースを横断し、テスト時にはいつも要所要所に大勢の見張りをつけていた。この時は、見張りが担当場所に向かっている最中に事故が発生した。見張り準備完了の合図が出る前に、もういいだろうとスタートしてしまったことが不幸を招いてしまったと記憶している。つい最近のことであるが、妻の実家の菩提寺で、偶然内藤君の墓を見つけ線香をあげた。これからは時々お参りしようと思う。

■トラブル多発の1961年マン島TT

組み立てが終わりマン島行きを待つRT61

5月13日にはRT61を6台、20日にはRV61を6台、それぞれTTレース向けに発送し、24日には岡野武治監督(当時次長)を始めとする選手団がマン島に向かった。マン島での宿舎は、初年度と同じファンレイ・ホテル (Fernleigh Private Hotel) だった。TTレース期間中には、日本人で初めてマン島TTを走った多田健蔵氏の訪問を受けたほか、鈴木俊三社長 (当時) も応援に駆けつけた。

マン島TTの前に行われたスペインGP、西ドイツGP、フランスGPの3戦にはドライバーが単独で出場。マシンを送っただけで、スズキからは誰も行っておらず、詳しい状況はわからなかったが、結果は全く芳しいものではなかった。スペインGPの125ccはスタートできず、250ccはリタイア。西ドイツGPは両クラスとも出場取りやめ。フランスGPの125ccは出場取りやめ、250ccは3周目にリタイアという散々な情報だった。

契約交渉に来日したP・ドライバー夫妻

TTレースの公式練習が始まると “トラブル多発” の電報が、次々と我々日本の留守部隊に入ってきた。“マグネトシャフト折損”、“ミッションのカウンターシャフト折損”、“キャブレターのオーバーフロー多発”、“ピストンの溶け多発”、“始動性不良” ……と、トラブルだらけで無茶苦茶な状況のようだ。

本社でのベンチテストでも米津浜テストコースでの走行テストでも発生しなかったトラブルばかりだ。TTレース以降の全レースに参加する予定で出発した選手団だったが、TTレース、オランダGP、ベルギーGPの3レースに参加しただけで、日本に引き揚げることになった。

下表に、これら3レースへの出場車の状況を示す。リタイアの原因などの詳細記録は残っていない。

マン島TT (6月12日)
125cc
250cc
伊藤光夫
2周目リタイア
P.Driver
リタイア(1周目10位)
市野三千雄
2周目リタイア
H.Anderson
10位
増田俊吉
2周目リタイア
A.King
リタイア
伊藤光夫
リタイア
市野三千雄
12位
増田俊吉
リタイア
 
ダッチTT=オランダGP (6月24日)
125cc
250cc
P.Driver
リタイア
P.Driver
リタイア
伊藤光夫
16位
伊藤光夫
リタイア
市野三千雄
14位
松本聡男
リタイア
松本聡男
17位
増田俊吉
順位なし(最後まで走行)
増田俊吉
リタイア
 
ベルギーGP (7月2日)
125cc
250cc
市野三千雄
14位
P.Driver
7位
F.Perris
リタイア

いろいろなトラブルが発生したが、原因をまとめると次のようになると考える。

  • [1]クランクケースの上にマグネトを設置し、クランクシャフトから、3連ギアで駆動する方式をとった。この機構に構造上の問題があった。このためマグネトシャフトの折損事故を多発させた。
  • [2]ミッションのカウンターシャフトにサークリップ用の溝があり、強度不足で折損が多発した。
  • [3]キャブレターフロートの浮動方法不良で、オーバーフローやガス切れによるピストントラブルを引き起こした。
  • [4]ロータリーバルブのシール性に構造上問題があり、始動性不良などを起こした。
マン島TTのスタートを待つスズキチーム

この年、ヤマハが初めて選手権レースに参加し、フランスGP、マン島TT、ダッチTT (オランダGP)、ベルギーGPの4戦で125cc、250ccの両クラスに出場した。ライダーは伊藤史郎、野口種晴、砂子義一、大石秀夫ら、往年の浅間の猛者たちだった。ヤマハチームの成績は、フランスGPで125cc、250ccともに8位 (125cc:野口、250cc:伊藤)、マン島TTの250ccで伊藤が6位と、まだまだトップレベルではなかった。しかし、世界選手権参加2年目のスズキは、初参加のヤマハの後塵を拝したのである。

ホンダはこの年、参加3年目にして125、250cc両クラスのメーカータイトルを獲得。個人タイトルも、125をフィリス (Tom Phillis)、250をヘイルウッド (Mike Hailwood) が獲得し、両クラスを完全制覇した。なお、高橋国光が第2戦・フランスGPの250ccで日本人初の世界選手権レース優勝を果たし、続いて第8戦・アルスターGPの125ccでも優勝した。

1961年スズキRT61(125cc・空冷2ストローク2気筒・ロータリーバルブ)


■125cc単気筒エンジンの試作

こうして、トラブルだらけの、苦悩にみちた2年目の世界選手権レースへの挑戦は、ベルギーGPをもって終了したが、この年の後半戦出場を目指して、125cc単気筒エンジンの開発が進められていたのである。125ccは、RT60、RT61ともに2気筒エンジンを採用してきたが、優勝を争う性能の20ps以上には、なかなか到達できず、単気筒ロータリーバルブエンジンの開発もやろうということになったのである。

当時優勝を争っていた東ドイツのMZも、エーリッヒ (Ehrlich) 博士の設計によるEMCも、ともに単気筒ロータリーバルブエンジンだったことにも影響された。このような経緯で、RT61・RV61のTTレース向けの発送準備で多忙だった4月中旬過ぎから、概案設計にとりかり、5月20日には、RT62Xエンジン (125cc単気筒・ボア×ストローク:φ56×50.5mm・ロータリーバルブ) の試作図が出図され、ベルギーGP直後の7月4日には試作エンジンが完成し、ベンチテストを開始した。RT62Xは、その後改良されてRT62Yとなり、RT62Yは1962年の選手権レース出場車・RT62のベースとなったのである。