25 スロヴェニアに入国

イタリアからの出国は簡単だった。
問題はスロヴェニア入国。
この前、ここを通ったのは'88年の今ごろ。
新婚旅行パート2と称して
ユーゴスラヴィアGPを見に行く途中だった。
その前にも何度か通っていたが、いつも、ひどく混雑していた。


スロヴェニアの道を走りだして
Kosinaのボーダーを振り返る。
こちらからイタリアに
出て行こうとするクルマも
イタリアから
入ってこようとするクルマも
出入国はスムーズそのもの。




ところが、スロヴェニアが独立してから初めての今回
国境は異様なまでにすいていた。
入国や通関が簡単になり
みんな、時間を取られずに通過できるようになったからだろう。
ここで、今回の旅行で初めて
パスポートにスタンプを押してもらった。
“KOZINA”という地名と日付だけの
昔と同じスタンプだったのでがっかりした。
もちろん、ユーゴスラヴィア時代と同じく、VISA は不要だ。

入国してすぐのところに
昔ながらのレストラン、売店、両替屋があった。
内装は一新されており
以前のように“東欧に来たんだ”という感じはしない。
両替屋でドイツ・マルクを
スロヴェニア・トラリェフ(Tolarjev)に交換した。
最初、日本円を見せて断られたからだ。

初めて見るトラリェフ札は
オランダ・ギルダーに似た色使いの、美しい紙幣だった。
100マルクで6766トラリェフだから
ほぼ1円=1トラリェフと考えていい。
ボクがその国の経済力の指標のひとつにしている
お札の疲労度も低く
新生スロヴェニア共和国の経済は
まずまずの滑りだしのようだ。




100トラリェフ札の表裏。
この他、10、20、50
500、1000があり
どれも同じように
グラフィカルで
すっきりしたデザイン。


そういえば、アウトストラーダでも
スロヴェニアナンバーの車をよく見かけた。
プジョーの605やメルセデスの230E
フォルクスワーゲンのパサートなどが
イタリア車に負けないスピードで走っていた。
イタリアの[A4]には
昔からユーゴスラヴィアナンバーの車が多かった。
しかし、去年は確か、旧ユーゴスラヴィアの車は減っていた。

イタリアの[A4]に代って“壁”崩壊前後から
東欧諸国の車がどっと押し寄せたのは
オーストリアの[A1](ウィーン〜ザルツブルク間)だ。
ハンガリーとオーストリアは
ドイツやフランスに向かう通路だった。
それが、今年になってまた逆転している。
イタリアではスロヴェニアの車が増え
オーストリアでは東欧の車が減っている。

トリエステで食べたケーキのせいか、喉が乾いた。
レストランでミネラルウォーターを頼み
ついでにとなりの売店を覗いた。
その途端、なつかしさがこみあげてきた。


Kosinaのボーダー脇にある
レストラン、免税店、両替所
観光案内所などが入った建物。
独立後新しく建てられたもので
中の雰囲気も免税店の商品も
イタリアあたりと変わらない。


1984年、メカニックとしてグランプリを転戦していたとき
ユーゴスラビアGPのとき
クロアチア人のジェリカという女の子と知り合った。
シーズンが終わって帰国する前に、クロアチアを訪ねたとき
彼女がおみやげにくれたのにそっくりの
木彫りの皿があったのだ。
結局、それ以来彼女とは会っていない。
あのときは“来年もまた会おう”って約束したのに…。

そして今、ボクは、スロヴェニアを通過して
クロアチアのリエカに向かおうとしている。
リエカのすぐ沖合いのアドリア海には
クルク島(Otok Krk)が浮かんでいて
クルク島のマリンスカ(Malinska)という小さな町に
彼女が働くホテルがあった。

あのときは、半月ほど
そこをベースにクロアチア各地を旅してまわった。
いろんなことをいっぺんに思い出して息が詰まりそうだった。
ともかく、大好きなリエカ(Rijeka:川の意)の街だけは
今回、どうしてもその無事を確かめに行きたかったのだ。


トリエステ〜コジナ間は約18km。
アウトストラーダ[A4]は
トリエステに入る手前から
無料の自動車専用道となって
市街地背後の緑濃き山の中を通り
ボーダーに達している。