カメラとの出会い(小学校〜中学校時代)

私と写真、あるいはカメラとの出会いは、オートバイよりも10年ほど前のことです。初めて自分でシャッターを押したのは、オリンパス・ペン。フルマニュアル、レンズシャッターの、ハーフサイズの名機と呼ばれたカメラです。親父に借りたオリンパス・ペンにフジフィルムのネオパンSS(ASA100のモノクロ)を入れ、小学校3年の遠足に持っていきました。

シャッター速度は125、絞りは晴れなら11、曇りなら8、あとは目測で距離を合わせて…と、親父に教えてもらったまま、遠足の行き帰りに乗った電車、行った先の景色、友達の集合写真などを撮ってきました。

鉄ちゃんになったのは、その直後のことです。一駅だけ近鉄に乗って通学していたのと、父の弟が国鉄、母の姉婿が近鉄に勤めていたのと、父の実家が国鉄関西本線加茂駅の近くにあった、などなど、鉄道に興味を持つ条件は揃っていました。そんな私が、鉄道写真を撮るようになったのは、きわめて自然のなりゆきだったと思います。

中学時代の私は、鉄一色といっていい生活を送っていました。撮影はほとんどSL。それも車両写真よりは“SLのある風景写真”が中心。キネマ旬報社刊行の“蒸気機関車”(創刊時は季刊、のちに月刊化)や鉄道ファン誌などの影響です。毎週末のように親父の実家に行き、D51牽引の貨物列車(多くは後補機付き)や荷物列車を撮っていました。

SLだけでなく、各地の非電化私鉄やナローゲージにも興味を持つようになり、高校時代の前半にかけて、井笠鉄道、北丹鉄道、尾小屋鉄道、浜中町営簡易軌道、津軽鉄道などに、一人で、あるいは家族といっしょに撮影行を繰り返していました。

カメラは、中学1年までがオリンパス・ペン、その後叔母からもらったミノルタ(機種不明の非一眼レフ)、そして中学3年以後は叔父からもらったキヤノンFT+FL50mm F1.8とFL100mm(F値忘却)。それに高校に入ってから母に買ってもらった中古のキヤノンFTbとFD100-200mm F5.6、FD28mm F3.5を加えたラインアップは、その後10年以上変わりませんでした。

ただ、小学校〜中学校の頃の私は、鉄道写真を撮るとはいっても、撮り終わったフィルムを何ヵ月も放置していたり、プリントするといってもサービス版だけで、それを束ねて箱に入れるのが唯一の整理…といったありさま。とにかくシャッターを押せば満足していた時代です。

鉄研がなかったので写真部へ

小学生の頃から、大きくなったら部活は鉄研…と決めていたのに、私が入った高校には鉄研がありませんでした。そこで選んだのは写真部。昼休みと放課後は暗室に籠り、休みの日には撮影に出かけるという日々が続きました。

撮影対象は、もちろんSL。当時はまだ山陰本線にも関西本線にもSLが走っていましたから、被写体には事欠きませんでした。が、当時の高校の写真部ってのは、芸術派と技巧派のどちらかが尊ばれ、鉄道写真などは軽視する風潮がありました。1学期に1回程度の、写真部合同の撮影会なども、目的地は神社仏閣、テーマパーク、田舎の集落などが中心でした。

写真部に入ってからも、ほとんど鉄道写真にしか興味のなかった私が、風景や物を撮るようになったのは、高2になる春休みの北海道SL撮影行がきっかけでした。学割で7千数十円の“北海道均一周遊券”を買い、予定では道内にいる12日間すべてをSL撮影に費やすはずだったのですが、爆発的なSLブームのおかげで、どこに行ってもマニアの列。おかげで、人と同じことをするのが嫌いな私は、途中でSL撮影に見切りをつけ、ふらりと礼文島に渡りました。

稚内から船に乗り、礼文島の香深に着いた私は、そこからバスで船泊まで行くつもりでした。ところが、ストライキのため、その日のバスは運休。仕方なく、私は、香深から船泊まで約20km、海沿いの道を歩くことにしました。

今も使っているアルミ張りのカメラバッグと、着替えの入った小型の柳行李と、中型の三脚を縛りつけた約20kgの背負子を背負って、よくまあ20kmも歩いたものです。しかし、このとき、まったく疲れを感じることなく、楽しんで歩ききれた自信は、その後の私の人生に、身体面でも精神面でも非常に大きなプラスになりました。

歩きながら、いろんな写真を撮りました。海、山、道路、小川、民家、商店、おばさんたち、子供たち…。なかでも、海(というより浜)の景色とおばさんたちと子供たちは、これからも機会があれば撮り続けたい、魅力あふれる被写体だと感じました。

そして、高校2年の夏には、京都府北部の丹後町間人へ、生まれて初めて、鉄道以外の写真を撮るために出かけました。このときに撮った写真と、そ