尾熊さんが引退された。ＨＲＣ（株式会社ホンダレーシ
ング）の取締役副社長というよりは、ホンダチームのボス
として、グランプリ関係者に彼を知らない者はいないとい
うほど強烈なパーソナリティーの持ち主だ。
尾熊さんに最初にお会いしたのは84年。福田照男チーム
の一員としてヨーロッパを転戦している途中のことだ。尾
熊さんの最初の言葉は「飢え死にするなよ。ウチに来たら
食べるものくらいは分けてやるからな……」だった。
『何とまあ失礼なオッサンだ……』と、そのとき思った。
初対面の相手に対して、いくらＨＲＣのお偉がたと貧乏プ
ライベーターという立場の差はあれ、ひどいじゃないか』
それ以後しばらく、ボクは尾熊さんが嫌いだった。
そのヤなおっさんに、次に会ったのは87年。全日本のパ
ドックだ。最初に会ったときより、こっちはちょっとだけ
偉くなり、ＹＺＲ２５０のメカをしていた。このときは言
葉は交わさなかった。が『あのおっさんのＮＳＲに負けて
たまるか……』と、後ろ姿に向かって拳を握りしめた。
次は……、ＨＲＣに取材に行ったときだ。『ほう、ここ
がホンダのレースの本拠地なのか……』と、ただ珍しがっ
てきょろきょろしていたのに、技術者のインタビューに先
立って尾熊さんが現われたとき、ボクは、誤って捕虜にな
った落伍兵のような気分になってしまった。緊張しまくっ
て、まともに顔を見ることはできなかったが、そこで『こ
のおっさん、敵意を持たなければなかなかおもしろそうだ
な……』と、初めて尾熊洋一という人物に興味を感じた。
取材は、まったく尾熊さんのおかげで滞りなく終わった。
取材者にとっての尾熊さんは、たぐいまれなホスピタリ
ティー精神の持ち主だ。こちらが何か質問をする前に、取
材の意図を汲み取り、席に着くが早いか、聞こうと思って
いたことはもちろん、とても聞けるとは思っていなかった
きわどい内容まで一気に、淀みなくまくしたてると「じゃ
私はこれで……」と、退席されるのが常だった。
常に現場にいて、マシンのことは誰よりもよく知ってい
て、しかも会社ではエグゼクティブだから、自分でしゃべ
っていいことといけないことの判断ができる。これが、取
材を受けたときの、あのレスポンスの良さの秘訣だ。
尾熊さんの場合はさらに、話し好きというよりは『しゃ
べりたがり』な性格が加わる。『私がしゃべりたいことは
しゃべっていいのだ……』みたいな自信とともに、取材者
の質問に答えるというよりは『どうだ、スゴいだろう…』
と、子供が友達に向かっておもちゃの自慢をしているよう
な雰囲気が感じられる。
その後、毎年ＧＰの取材に出かけるようになると、もう
ボクにとって尾熊さんは、ヤなおっさんどころか、パドッ
クで真っ先に会いたい人のひとりにさえなった。
ＮＳＲ５００がフューエルインジェクションのテストを
していた頃は、こっそりＨＲＣのバンに招かれ、サンプリ
ングやプログラミングのようすを見せてもらったことがあ
る。そんなときの尾熊さんは、にこにこしながら「あ！こ
こから先はダメ！」とか、しゃべった後で「おっ！」と言
いつつ、ニヤニヤしながら手のひらで口を覆うおおげさな
ジェスチャーをされたり、ホントに楽しそうだった。
レースやオートバイについてはもちろん、乗り物や旅行
などについて、年齢の差や立場の違いを超えてお話しする
こともできた。そして、いつも尾熊さんは、目を輝かせ、
身を乗り出してこちらの話を聞いてくださった。話しじょ
うずであり、聞きじょうずなのである。
そんな尾熊さんの、予期せぬ送別会があると聞いたのは
ドイツＧＰが終わってからだった。どうしても参加したか
ったボクは、オランダに行き、青木チームのメカニックを
クルマに乗せてベルギーに向かった。ヨーロッパでのＨＲ
Ｃのベースとなるブリュッセル郊外のアールスト。そこの
街外れのレストランで、送別会は行われた。
あいさつに立って、声を詰まらせ、涙にむせぶアーブ・
カネモト。神妙な顔つきで記念品を手渡す伊藤、岡田、青
木兄弟。誰もが尾熊さんとの別れを惜しんでいた。招かれ
ざる客だったボクは、ただ黙ってそこにいたが、別れを惜
しむ気持ちは誰にも負けない。でも、最後に、「少年時代
に夢に描いてできなかったことを、ゆっくりとやってみた
い…」という言葉を聞いて『そろそろこのおっさんにも楽
をさせてやっていいかな……』という気になった。
どうか尾熊さん、お体を大切に、好きなモノに囲まれた
楽しい人生を送ってください。そして、いつか必ず、じゃ
なくて、約束どおり、今年の最終戦には、ＨＲＣのエグゼ
クティブじゃなくて、ファンとして観戦に行きましょう。
あなたのいないパドックは、やはり、ちょっとばかり寂し
いと、あなたを知るみんなが思っていますから……。
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