判断力を奪う効果しかない、場当り的交通規制の見直しを
(ライディングスポーツ 96年11月号)

                         
  また信号機がついた。実家の近くの、とある小さ 
 な交差点のことだ。まっ昼間、そこで信号待ちをし 
 ながら考えた。この信号は、いったいどんな目的で 
 設置され、何のために作動しているのだろう? 考 
 えながら青信号を待つ間、交差する道路からは1台 
 のクルマも1人の人間もやって来なかった。    
  そんな交差点でも、朝夕はクルマの往来が激しく 
 なる。だからといって信号機が必要だとはとても思 
 えない。仮に必要だったとして、日中も朝夕と同じ 
 ように作動させておく必要は、まったくない。必要 
 がなくても信号機や道路標識が増え続ける事の理は 
 わからないでもないが、そのために利用者が迷惑し 
 ていいわけがない。               
  迷惑だけならまだいいが、ここに信号機をつけよ 
 うと決めた人は、信号や道路標識などないほうが安 
 全な場合が多いということなど考えてもみなかった 
 のだろう。交通量に応じた制御はおろか時間帯によ 
 る調整さえロクに行われていない安物の機械の動作 
 を、人間の頭脳を使った高度な判断力よりも優先さ 
 せることの不合理さを……。           
  日本の交通行政とはつまり、ドライバーの判断力 
 を奪うことなのではないかとさえ思えてくる。信号 
 機をつければOK、制限速度を低くすればOKとい 
 う場当り的な対応では、信号さえ守れば安全、制限 
 速度さえ守れば安全という間違った運転を助長する 
 だけで、本当の安全などやって来はしない。    
  こんな道路行政がまかり通るのは、クルマは安全 
 なものという誤まった認識が元になっているのでは 
 ないか。クルマは危険なものなのだ。だからこそ安 
 全に使わなければならないという観点に立てば、ド 
 ライバーの判断力を奪うような信号機の設置や制限 
 速度の指定など、できないはずだ。        
  もちろん、ドライバーだって、いつもおとなしく 
 場当り的規制に従っているわけではない。日本全国 
 ほとんどのドライバーが、自分の判断を優先してス 
 ピード違反をしているのがいい例だ。しかしそれは 
 同時に、自分の判断を優先させると犯罪者になると 
 いう不合理と、見つかりさえしなければ犯罪を犯し 
 てもかまわないという恐ろしい意識を生む。    
  規制が場当り的なら取り締まりも場当り的だ。安 
 全のためなどではなく、ただ、場当り的な規制を思 
 い出させる効果しかない。それが証拠に、スピード 
 違反の取り締まりは、40km/hなら40km/hという 
 同じ指定が続く範囲内で、運転していて最もスピー 
 ドの出やすいところにレーダーを置いている。   
  本来なら、その範囲内でももっとキメ細かに決め 
 るべき最高速度指定を一律にしたままという手抜き 
 規制を棚に上げて、ドライバーが他よりも安全だと 
 判断した場所で、その判断の適・不適を問わないま 
 ま取り締まりをするのだ。これでは誰だって、ただ 
 運が悪かったとしか思わないし、実際、ただ運が悪 
 かっただけのことだ。              
  ボクは運が悪い。日本で運転しているとしょっち 
 ゅう捕まる。たいていはスピード違反だ。わかって 
 いてしているのだから、捕まったときは素直なもの 
 だ。相手が言うより先に免許証を呈示し、左手の人 
 差し指を差し出したりしている。だが、素直に違反 
 を認め、早く切符を作れとは言っても、絶対に反省 
 の言葉は口にしない。自分の判断が間違っていたと 
 は考えられないからだ。             
  いつだったか捕まったとき、違反を認めた後、自 
 分の運転が危なかったかどうか、捕まえたヤツに聞 
 いたことがある。そいつの答えは、危なくないけど 
 違反は違反、というものだった。●●警察署の×× 
 クンのように、判断力が鍛えられているようには見 
 えない彼でさえ、ボクの運転は危なくないと認めた 
 のだ。だが、違反は違反。さすがは法治国家だ。  
  ただ、法治国家には、その法を改正する手続きも 
 備わっているから、現場の警察官が返答に窮するよ 
 うな規制は、即刻改めるべきだ。それをせずに犯罪 
 者を増産するのは、ただの放置国家にすぎない。  
                         


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